千の風 33話
風が止んだ
何も見えなかった、何も聞こえなかった
深淵な闇が視界と聴覚を奪っているのだ、と思う、しかし、不思議と恐くはなかった
ああ、もしかすると、私は闇と同化してしまったのだろうか、とは考えた
「(――でも、それも、いいかもしれない)」
このまま闇に溶け込んでしまおうか、自我を捨てて、無へとなってしまおうか
自分でもはっきりと分かる、この空虚な心、そして、心にぽっかりと穴が空いたような感触
そのせいなのか、すべてがどうでもよいことのように思えた、そう――自分が生きていることさえも
パリン、パリンと硝子が割れる音、その音が聞こえる度に、自分の中の何かが消えていくような感じがした
「(もう、いや、だ…、ねむり、たい)」
涙が溢れた、しかし、何故涙が流れるのかには分からなかった
「キョ、ウ…」
そして、意識が失う前に呟いた言葉の意味も分からなかった
でも、一瞬でも心が温まったのは確かで、何故だか分からないけれど、顔が弛んでしまったのも確かで
( た す け て )
頬を流れる涙の感触を感じながら、は知らない誰かに助けを求めた
(た す け て キョウ)
「…!?」
「闘いの最中に考え事?随分と余裕だね、狂」
あんまり俺を甘く見ないでよ、とほたるは一瞬で狂の背後に移動し、刀を振り下ろす
咄嗟に身をかわし、ほたるに斬り掛かる狂であったが、ほたるは何も抵抗はせず、そのまま大人しく斬られた
真っ二つに斬られた体はそのままゆらりと揺れ、炎と化す、幻想だ
「はずれ」
「チィ!」
再び背後に現れるほたる、そしてそれと斬る狂、しかし炎と化す体――先程と同じ行動に狂は舌打ちをした
「それもはずれ」
聞こえた声は空高くから聞こえた
高下駄で高く飛んだほたるの体は逆光によって影となり、正確に捉えることが難しかった
でも、その影は狂を殺そうと刀を構えている姿であることは明らかで
「”灼爛炎帝”」
剣先から発した火炎は高温を宿して狂に襲いかかった
簡単に飲み込まれた狂に、ほたるは闘いによって崩れかけた門の一部である岩に腰掛けながら言う
「…弱い…これじゃあすぐに殺せてしまう、つまんない」
「ちっ…」
自分を襲う炎を己の刀によって回避した狂は舌打ちをする
それは痛みを紛らわすらめにしたものなのか――…その体には無数の火傷の跡が見て取れた
「狂の強さには地位も名誉も…仲間も目的も…何のしがらみも必要無い、孤独が力を生み、力が孤独を生む…
そんなトコロ他の人と違ってて好きだったのに、すごく、イイと思ってたのに――」
空を仰ぎながら、呟くようにほたるは言葉を紡いだ
しかし、狂な何も答えなかった、只、じっとほたるを見つめるだけ
「 何でそんなになっちゃったの?何で、そんなに弱くなっちゃった?ねえ、そんな力で」
――を守れるとでも思ってるの?
、という名前を聞いて僅かに肩を震わした狂に気付かないほたるではなかった
「やっぱり無理矢理にでも止めておくべきだったのかな」
ほたるはふ、と目を閉じる
脳裏に浮かぶのはそう、数カ月前の、彼女の、との会話で
『壬生を出て行くの?』
『そう、狂の所に行くの』
目が少し赤かったし、頬に涙の跡があったこともあって、がまた夢を見たということは容易に想像できた
でも、どんな夢を見たのかと聞くことは酷過ぎて、自分には出来なかった
は狂の元へ行くと言う、と、言うことは、狂の生死に関わる夢でも見たのだという予想はすぐについたのだけども
『狂を、護るの』
揺らぎのない漆黒の瞳に心臓が高鳴った
『…止めるって言っても?』
一度自分で決めたことは最後までやり通すのが彼女だったから、今更ここで自分が行かせないと言っても、到底止めることは不可能だろう
それでも、今までのように、自分の側にいて欲しいという願いがあることも事実で
『…分かっているでしょう、ほたる、それとも…力づくで止めてみる?』
そんなことが出来るわけがないと分かっているくせにそうやって聞くなんて、本当には意地悪だと思った
『…帰って、くるよね』
『そうね、何時かは』
『何時かって…オレ、気が長いわけじゃないから、あまり遅いと無理矢理にでも連れ戻すからね、覚えておいて』
の腕を掴む、この腕を放してしまったら、お前は風のように、鳥のように空に羽ばたいていくんだろうね
『…覚えておく』
少しの間のサヨナラ
その間、お前が泣かないですむように、傷付かずにすむように、願うことしかできない自分が歯痒いと思ったんだ
ふわりと髪を撫でたの手のぬくもりを覚えておこうと、ほたるはそっと目を瞑った
「あの時に無理矢理にでも止めていれば良かったかな」
俯きながら話すほたる、そのため、今どんな表情をしながら話をしているのか窺うことができなかった
「あの時を壬生から出さなかったら、は傷付かずにすんだのかな…」
「……」
「ねえ、狂、お前分かってる?お前がどんなにを泣かせているか」
久し振りに見たは少し痩せたようで、顔色も良くなかった
自分を抱き締める彼女の腕があまりにも頼りなかったのを、よく覚えている――の腕はこんなにも細かっただろうか
そして、頬に残る涙の跡、ねえ、お前はこんなにくっきりと残るまで泣き続けたの?――誰を、思って?
「は何時だって、お前のために涙を流すんだ」
――お前を思って、泣くんだよ、は
自分のことすら顧みずに、お前のために傷付いて、苦しんで、泣くんだ、とても優しいから――彼女は
狂との間には誰にも入れない雰囲気が昔からあったとほたるは思う
彼らには誰にも壊すことが出来ない絆のようなものがあって、それは簡単に壊れないような強固なもので
が狂のために大粒の涙を流して泣くのも、それ程狂のことを思っている証でもあることは充分分かっている
他人に干渉しない狂が、を側に置いているのも、彼女と同じ気持ちだからだということも
分かっているんだ、それでも
「オレはこれ以上、が泣くのを見てられないんだ―― だから、強さを失くした漢に、をこれ以上任せておけない」
意志があるかのように、炎はほたるを包み込む
「死んで、狂」
カラン、とほたるは高下駄を鳴らした
「―っう…!」
ズキン、と全身を切り裂かれたような痛みが体を襲う
痛みは腹部に集中していた、ギリっと歯を噛んで耐えてみるも、声にならないものが口から漏れる
声にならぬ痛み、しかし、痛みを感じるということは自分はまだ生きているということだ、と少なからず安心した
「――…目が覚めたか?」
耳に入った声は一気にの意識を覚醒させた
その声色が誰であるかは分かりきったことで、一気に自分の闘気が膨れ上がるのを感じ取る
それと同時に瞳に熱が集中したように、目が熱くなった――これは油断した自分への苛立ちか、それとも彼の者への憎しみか
――この行き場のない感情をどうしてくれようか
「――随分と、良い趣味をお持ちのようで」
強がりだ、これは
本来ならこの場で致命傷でなくとも傷一つでも付けられたかもしれないのに
唇を噛み締めると同時に体に巻き付き、自由を奪う冷たい金属の感触に舌打ちした
口の中に錆びた鉄の味が広がり、眉を顰める
ジャリ、といった冷たい金属の音が静かに空気を浸透した
「お前らに人を縛りつける御趣味があったとは、ね」
決して逃がさない、という意志が見て取れるように、自分の体には幾重にも鎖が巻き付けられている
こんな脆弱な金属で俺を捉えることが出来るとでも思っているのかと、浅はかな考えだと嘲笑し、己の掌に意識を集中した
「無駄です、」
しかし、それは体の芯までも凍えさせてしまいそうな、冷たい響きを持つ、抑揚のない声によって遮断される
「ひしぎ…!!」
視界に入った瞬間に、咄嗟に掴み掛かろうとするも、動きを止められているため叶わなかった
少しでも動こうものなら皮膚を喰いちぎるのでないかと思うくらいにに強く鎖が縛られているのだ
目を背けてしまうような痛々しい跡がの肌に浮かんだ
「ここは紅の王の禁呪がかけられています、それ故、いくら貴方と言えどもその鎖を破ることは出来ませんよ」
視界に入るは漆黒の衣装を纏う男――相変わらず表情一つ変えずに淡々と述べる彼に苛立ちを覚えた
「ハッ、なら禁呪を破るまでだ…!」
「それはどうでしょう、今の貴方は無力に等しいのですから」
「――本当にそうか試してみるか?」
「出来るものなら」
表情一つ変えることなくひしぎはを挑発するような物言いで言葉を紡ぐ
自分は完全に嘗められている、そう考えるだけでは腸が煮え返る思いがした
そうして余裕でいられるのも今の内だけ、今にその鉄の面を剥がしてやろう、とは心の内で思いながら静かに目を閉じる
「(風よ―…)」
こんな鎖など風で切り裂いてやる、とは腕に力を込めた―…が、しかし、
「な…」
「――だから言ったでしょう、今の貴方は無力だと」
何も起こらなかった
風の声がまったく聞こえる気配がなく、聞こえるといっても、この部屋の壁となっている岩と岩の間の吹き抜ける僅かな隙間風ぐらいの程度であった
(風が、消えた?)
「な、んで…」
「…」
「ま、さか、お前…!!」
「―…最早お前に風の力など不必要だろう」
顎をくいと持ち上げられる
肌に触れる指先が冷たくて身震いした
その冷たさに比例するように、彼の者の眼差しは鋭く、氷のように凍てついていて
太四老が長、吹雪は、ようやく姿を表し、言葉を紡いだ
「―…早矢に、何をした?」
「お前が知る必要はない、お前はもうこの壬生から外へ出られぬ身なのだから」
「ふざけるな!」
「我々がふざけていると?それは心外ですね…―ねえ、」
「…っ!?」
そこには先程と同じ、瞳に光りの無い深淵な闇の色を宿した少女が同じく漆黒の髪を靡かせながらそこにいた
息を呑む
人形が、自分の妹に酷似した人形がそこにいる感触
鼓動がまったく聞こえず、生気もまったく感じられない
生きる人形―…生きる屍と言っても過言ではないかもしれない
いや、生きているというよりも、只、そこに存在しているだけの、人、無といっても等しいくらいの
「…?」
夢であって欲しいと、願ったのに
「…!!」
幻であって欲しいと、望んだのに
「!!」
「…いくら名を呼んでも、貴方の声はもう、には届きません」
「貴様らァ!!!に何をした!!!」
「――の感情を、封印しました」
「―…っぅ!!―」
「感情など、あっても邪魔にしかならぬものだからな」
「私情に任せ、我々に逆らうなど、あってはならないことですから…」
もう言葉さえも出なかった
脆弱な鎖が、今では鉛のように重く、体にのしかかる
「ど、して…」
「は既に壬生のものだ、そして、お前も」
今にも足下が闇と化し、呑まれてしまうような感触がした
そこは光のない、無の世界
「もう、お前達を、再び空に返すことなど、ない」
このまま闇に溶け込んでしまおうか、自我を捨てて、無へとなってしまおうか
の瞳から灯が消えた
風が止んだ
翼を奪われた鳥は何を思う?
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