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「あらざらむ この世のほかの 思ひでに いまひとたびの あふこともがな…」 これはもしかしなくても、とは銀色の紙に書かれた言葉を見やる。今にも消えてしまいそうで、頼りない文字。直感的にに女性の文字だとは思った。そしてこの和歌は恋の歌だろうということも。伊達にこの世界で数ヶ月も暮らしているわけではない。この世界に来たばかりの頃は、あまりにも文字が達筆すぎてとても読めたものではなかったが、今では弁慶にみっちり教えられたせいもあって、簡単な読み書きくらいならなら理解出来る程度までに成長した。墨で書かれた文字は相変わらず達筆で、まるで暗号のようなそれに頭が痛くなる。しかし、丁寧に一つ一つ読み解けば、それはいつしか単語となり、韻となって相手に自分の恋心を伝える和歌となる。それがとても面白いとは思う。 「これは――もしかしなくても、弁慶への恋文、よね?」 いくら弁慶と言えども、他人の恋文を物色して持ち帰るような悪趣味はないだろう。 となると、やはり可能性として高いものは彼へ当てた恋の歌ということだ。 「――…弁慶に、ねえ?」 別に弁慶に淡い思いを寄せる女性がいて悪いと言っているわけではない。むしろ、弁慶に恋をしてしまう気持ちはよく分かっているつもりだ。彼の容姿は目のやり場に困ってしまうほど、整いすぎている。それでいて、あの顔で優しく微笑むものだから、こちらとしては毎回心拍数が上がるというもの。おまけに源九郎義経の軍師という重役も担っていて、頭も切れる。つまり――彼、弁慶には女性を虜にする要素をいくつも持ち合わせている男なのだ――そう、ただ一つを除いては。 「――知ってたら、こんな恋文なんて貰わないわよねえ…?」 改めて、部屋をぐるりと見渡す。壁に掛けられた曼荼羅。本棚に入りきらないほどの書物は床に無造作に重ねられていて足の置き場を困らせる。棚と棚の間にかけられた綱には見たことのない薬草が吊るされていて視界を奪うし、草の独特な匂いが部屋を充満していて思わず顔を歪めてしまう。元いた世界では「片付けられない女たち」という本が話題となっていたが、この部屋はまさしくその本に当てはまるのでは、とは思う。 誰も想像しないだろう――足の踏み場もない、目を覆いたくなるようなこのきったねえ部屋こそ、我らが参謀、武蔵坊弁慶の居室だということを。見せてやりたいものだ、彼に熱をあげる女房たちに。これが貴女たちが熱中している男の有様だということを。 「――おやおや、感心しませんね…まさか他人の部屋を物色する趣味がさんにあったなんて」 耳元にふ、と吹きかけられた吐息とともにかけられた囁きは心臓に悪いほど甘くて、は思わず背中を震わせた。普通に登場すればいいのに。どうしてこの男はわざわざ気配を消して現すのだ。見た目は優男だが、この男。涼しい顔をして長刀を振り回す武人家でもある。油断ならない男だと常日頃から注意していたのに!ははあ、と溜息を吐いて弁慶を顔を後ろに向けて睨んだ。 「…人聞きの悪いこと言わないで頂戴、この部屋を掃除してくれって頼んだのはあんたでしょうが」 ――たまたま見えちゃっただけよ、と苦虫を潰したような顔をするを見て、弁慶はふ、と笑みを漏らした。 「別に心惹かれるような内容でもないでしょう?」 「まさか、腹を抱えて大笑いしてしまいそうよ、だって弁慶に恋文を贈るなんて…この部屋の惨状を見たら絶対に幻滅しそうだわ」 「僕は別に構わないですけどねえ、これ以上部屋に物が増えるのは勘弁ですし」 「…嫌味?」 いいえ、と至極柔らかく微笑む弁慶を見て、は咄嗟に身体を引かせた。虫の知らせか。この世界に来て死と隣り合わせの生活をしているせいか感覚には敏感になった。培われた感が知らせる。この笑みを浮かべる弁慶は危険だ、と。 「おや…どうして後ろに下がるんです?」 「あ、あんたのその笑みが恐いのよ!」 「―――本当に失礼な人ですね…いっそのことその口を塞ぎましょうか」 「冗談でもそんなこと言うのは止めてください!」 顔をずずっと近づけて、今まさに言ったことを実行しようとする弁慶には本気で憶えたように顔を青くさせた。そんな彼女の様子に弁慶は笑いを堪えようと、口元に手を当てて必死で堪える。そして、本当にこの少女といると退屈をすることがない、と更に笑みを深くした。ああ、こんなにも自分を楽しませてくれる女性がいるなんて、と。 「あ、あたしの相手するんだったら、さっさとこの部屋を片付けて綺麗な女の人でも招いたらどう!?」 「ちょっとやそっとじゃ綺麗にならないでしょう、この部屋は」 「ちょ…!じゃあどうして人に掃除なんてさせるの、よ!」 それは――といったん言葉をふと、止めて、しばし考え込んで。その数秒後。 弁慶は何かを思い付いたようにうっすらと紅潮しているの頬に手を置いて、深く微笑んだ。 「将来の予行練習、と言ったところでしょうか?」 ――しばしの沈黙の後。 先程の勢いはどこへやら。血が通いすぎてしまったかのように顔を真っ赤にさせて言葉を無くしてしまったを見て、今度こそ我慢出来ずに、腹を抱えて弁慶は笑い出したのだった。 いつもより、 (少しだけ一歩を踏み出してみた、それでも、今はまだ、この曖昧な関係のままで) |